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「私がここにいる」と感じるための部屋を作る。

私にとって作品を制作することは、常に自分の存在を確かめ続けることであり、疑い続けることでもある。まるで鏡にうつる自分に対して「誰?」と問い続けるように。
私の姿を私自身が本当の意味で見ることは出来ないという事実に囚われながら、そこから逃げるための唯一の方法として、制作を続けているのだろう。

作品によって立ち現れる「私」は、鏡にうつる姿のように「私自身の像」のようなものだ。輪郭の無い私が部屋の中に潜む時、私の皮膚はどこまで続いているのか。

私という存在は、私の中だけの妄想かもしれない。なぜなら、ここに「私」がいると明確に感じられるのは世界に私だけだから。

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例えば砂遊びをすると、砂場には私が触れた砂とそうでない砂があることになる。

それらを瞬時に見分けることが出来るのは世界で私だけだ。  

私に触れられた砂は、砂よりも私に近い。  

砂は私が触れたことで、私になってしまう。 そう私には思えてしまう。

砂の中に私を見つけつづけること。

砂を私にしつづけること。

私がいることを確かめる方法。

2023年3月(個展「透 明なま ま息し て」に寄せて)

自分の耳の裏を自分で見ることができないように、私たちはこの私として生きている身体を隅々まで把握することができない。自分という存在はこの世界にどんなふうに存在しているのか、という疑問を常に私は抱いている。


たとえば靴下を脱ぎ捨てた時、脱ぎ捨てられた靴下の形やシワの中には脱ぎ捨てた側の身体の一部が宿っている。元々靴下の中にすっぽりと収まっていた身体の痕跡として、また剥がれ落ちたもう一つの身体として世界に吐き出されているのだ。


吐き出された身体は意志のない身体となり硬化する。硬化した身体に出会う時こそ、自分の耳の裏を初めて見つめる時のような、見えなかった自分の身体との出会いがあるのではないだろうか。

2022年10月(展示「見えない身体」に寄せて)

作品は私という主体であり、物質という客体である。

それは私の鏡像なのだ。

何者であるか特定不可能なものとしてそれは存在し、

全ての人に解釈の余地を与えながら意味を奪う。

人が視線を向けたくなる、その行為の潜在性をあらわにしながら。

2019年8月

​​以下、作品に関する論評および展評

​山本伊等  "coreless"に関する書き下ろしテキストより抜粋

この作品は作者が世界と向き合う感触そのものであり、またそれにも関わらず絶えず人間がその歴史の中でうち棄ててきたものだ。名詞に溢れた資本主義社会で生きる人間はもはや、この作品のように完全にうち棄てられたもの、つまりかつては確実に人間と世界の間にあった親密さに対する言葉を持っていないからだ。

作品は何も訴えかけない。表現もしない。反抗もない。それは既存の言語/表現活動によって表せるものの範疇からひっそりとはみ出ているから。作者は何も創作していないし、意味の生成もない。あとはただ、身体と世界との気が遠くなるような闘争、つまり排泄があるだけだ。

2018年7月 

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